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源義経は平治1年(1159年)に源義朝と常盤の間に生まれた源頼朝の異母兄弟であり、幼名である牛若丸は有名です。
源氏の総帥として、木曽義仲を滅ぼし、一ノ谷で平氏を急襲、平氏の主力を四国へ敗走させ、ついには壇ノ浦で平氏一族を全滅させました。
しかし希代の英雄は、その華々しい活躍ゆえに兄頼朝に追われることとなり、文治5年(1189年)最後は奥州・衣川の館で自らの命を絶ちました。
その悲劇的な生涯は数々の逸話や伝説を生み、蒙古帝国の祖チンギス=ハンになったとまで言われています。 |
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能登随一の景勝地。「能登金剛遊覧船」に乗れば、海から能登金剛を眺めることが出来ます。
途中には義経と弁慶が碁を楽しんだと言われる、表面が碁盤のように縦横に線の入った碁盤島が見られます。 |
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日本海側最大のカルトス地形が作り出す、自然の造形美が魅力。
舟で奥州へ逃れる途中、嵐により能登へ流れついてしまった義経が、我が身の不幸に苛立ち切ったと言われる「義経一太刀岩」があります。 |
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関の鼻から遊歩道で、松本清張の「ゼロの焦点」で有名な「ヤセの断崖」、嵐を避けるために義経が舟で身を潜めていたと言われる義経の舟隠しが続きます。 |
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能登に流刑となった平家の重鎮・平時忠の五男・時国の子孫。
江戸初期に建てられた下時国家は国の重要文化財・名勝指定を受けています。
時忠の娘は義経の愛妾だったため、追われの身となった義経が義父を頼って能登を訪れたと言われています。 |
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時国家が上と下に分かれたあと天領庄屋として栄え、28年もの歳月をかけて造られた屋敷は豪華で見応えがあります。
庭園は下時国家同様に、国の名勝指定を受けています。 |
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国の名勝および天然記念物に指定されている曽々木海岸は、かつて「能登の親不知」と言われたほどの交通の難所でした。
三角形の大岩にポッカリと穴が空いた不思議な窓岩は、義経が矢を射ってあけた穴とも言われています。 |
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「平家にあらずば人にあらず」と言った大納言・平時忠は、壇ノ浦の合戦で敗れたあと能登に流刑となりました。 |
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時化に遭い珠洲へ流れ着いた義経が無事難を逃れたお礼として、愛用の笛「蝉折の笛」と弁慶の「左」と言う銘入りの守刀を神社に寄進したそうです。 |
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